16歳。女。主人公。
幼い頃、波杜(はと)の長の家に拾われた少女。養父である延月を慕っている。
水瀬 【みなせ】
年齢不詳の少年。
嵐に呑まれて波杜に流れ着き、穂波に命を助けられる。寡黙で心を閉ざしている。
真喜里 【まきり】
10歳。女。
波杜の長の孫。『祝い女(いわいめ)』と呼ばれる存在であり、癒しと予知などの力を持つ。盲目。
『長老』 【ちょうろう】
波杜の長であり『祝い女』の老婆。本名は滝李(たきり)。時折意味深な発言をする。
早苗 【さなえ】
長老の家に仕える一族の少女。穂波の親友。
延月 【えんげつ】
長老の長男。穂波の養父。5年前に嵐に飲まれて他界している。
狭桐 【さきり】
真喜里の母にして、延月の妹。繕い物が得意。
美紗緒 【みさお】
早苗の祖母で、長老家専属の乳母。
『碧海の彼方』という小説の定期公開の場所です。
毎週土曜日に更新。4回の更新で一章分完結の予定。完結した章は後々公式ページのほうにアップされます。
感想・批評大歓迎です。御気軽にコメントしていってください。
ではでは、どうぞごゆっくり^^
・『碧海の彼方』とは
桐原さくもが書く和風ファンタジー小説です。
・あらすじ
四方を碧海に囲まれた島国、我児奈波(あこななみ)。
海神の神話が根付くこの国には、時折《嘆き》と呼ばれる人喰いの嵐が起きる。
我児奈波最北端の村、波杜(はと)では、〈海神ノ祭〉へ向けて、着々と準備が進められていた。
そんなとき《嘆き》が起こり、《嘆き》によって養父を失った少女、穂波のもとへ、異国の少年が流れ着く。
左肩に焼きごてをあてられたような火傷。烏のように真っ黒な衣。そして――碧い瞳。
名前を持たない少年との出会いが、穂波の運命を大きく変えていく。
琉球・倭をもとにした異世界ファンタジー。
しかし海神(わたつみ)は、やるべき仕事をせずに娘をかわいがっていた。それを咎めたほかの神々は、海神がうとうととしている間に海神の腕から娘をとりあげて、石にしてしまった。
海神は嘆いた。石になった最愛の娘を抱きしめ、狂ったように泣き喚いた。大粒の涙は世界に流れ、海を創った。海神は石になった娘の名前を呼び続けた。叫びは暴風となり、新たな涙は大波を起こした。さらにそれを咎めた神々は、海神を海のそこへと閉じ込めてしまった。
その、海神の娘の名前を『奈波(ななみ)』と言う。
石になった奈波は、いつしか島となり、その島国の名を、我児奈波《あこななみ》の国と言う。
また、一説によると、石になった奈波の魂は身体から抜け出して、今もどこかで父親の姿を探し続けているという。
――我児奈波史書――
四方を碧海(へきかい)にかこまれた島国、我児奈波(あこななみ)。
その最北端の村、波杜(はと)の岬を、森を、そして民家を吹き抜けていくのは、少しの湿り気と、たっぷりの潮の香を運ぶ、穏やかな風だった。
障子の隙間からなかへと迷い込んだその風は、麻布の間からのぞく、穂波(ほなみ)の小麦色の肌をすべり、無造作に広がる、さらさらとした長い髪を撫でていった。
焦げ茶色のまつげがふるふると揺れ、ゆっくりと開いた。まつげの合間から、つややかな瞳が現れた。
萱葺きの床に身を横たえたまま、どこか確認のように穂波は呟いた。
「行った。……《嘆き》が」
我児奈波に突如やってくる激しい嵐は、海神が娘を思う心が張り裂けて起こるという言い伝えから、《嘆き》と呼ばれている。
昨日もその例に漏れず《嘆き》は突然やってきて、嘆きに嘆いて去っていった。
鼓膜を突き破るかのような雷に、地面に穴をあけるほどの激しい雨。穂波自身、何度も経験しているが、慣れることなどできないものだった。
勢いが衰えたのは、もう明け方が近くなってきたころだった。とりあえず、うとうとと浅い眠りにつくことができたが、いまだにまぶたは熱を持ち、身体はどんよりと重い。気をゆるめれば、なまぬるい眠りのなかに引き込まれそうだった。
穂波は眠気をまつげにのせて跳ばすかのように、何度もまばたきを繰り返したあと、思い切ったように身体にかかっていた麻布を蹴り上げて、身を起こした。ゆっくり眠っている場合ではないのだ。今――文月(しちがつ)は、波杜の民にとって一番忙しいときなのだから。
穂波は麻の寝間着(ねまぎ)を脱いで、傍らにたたまれていた藍色の単物(きもの)に腕を通した。
苧(からむし)でつくられている藍色の着物は、丈夫で風通しが良いし、藍は毒虫を遠ざける。なんの飾りもないが、穂波たち海辺の民にとっては、これ以上ない着物だった。
たらいにためられた水で顔を洗い、背中まで伸びた髪を、ひとつぶの真珠が編みこまれた紐でひとつに結わえると、眠気はだいぶ押しやられ、身がひきしまる気分がした。
すだれをおしやり外に出ると、あふれんばかりの朝日が穂波を包みこんだ。
「晴れた」
どこかうろんな口調で穂波は呟いて、海とは逆の方向にある丘を見つめた。丘の上に見えるのは、蒼い空と対をなすような朱色の瓦屋根。波杜(はと)を治める『長老』の屋敷である。
『長老』は、地をするほどの銀髪に、歳を感じさせない生き生きとした、それでいてどこか鋭い眼光をもつ老女だ。『祝い女(いわい)』と呼ばれる巫女でもあり、統治から神事までを取り仕切る。
漁に出れない女や子どもは、『長老』の屋敷に奉公にいく。今年十六になる穂波も十の歳から行っていた。『長老』の屋敷は作業場であり、そこで機織をしたり、貝を磨いたりするのだ。
しかし、穂波の足が向かったのは、『長老』の屋敷ではなく、集落を横切った先にある岬だった。奉公に行くにはまだ少し早い時間なのだ。
「穂波お姉ちゃん」
ふいに名前を呼ばれてふりむくと、腰に軽い衝撃があった。
「おはようございます」
穂波の腰に顔をうずめ、くぐもった声で挨拶を述べたのは、小さな少女だった。
「真喜里(まきり)。こんなところまできたの」
現在の『長老』の孫であり、『祝い女』としての才をもつ少女、真喜里。
波杜の『長老』の地位は、長老家のなかでも『祝い女』の才をもつ女がつくものだ。真喜里の母はその才をもたない。したがって、真喜里は次代の『長老』である。
『長老』の血筋には、『祝い女』の証をもつ者が二代にひとりは生まれてくる。『祝い女』の証とは、盲目であること。盲目ゆえに感覚を研ぎ澄まし、光を奪われたゆえに祈りと治癒の力を授かった存在が『祝い女』なのだ。
つまり、真喜里は盲目である。真喜里の瞳は玉のように丸くかわいらしいが、常に曇った硝子球のようだ。そのせいか、同年の子らと比べると、どこか寂しげな印象を受ける。しかし、彼女の性格は十の歳に相応しく、好奇心旺盛で快活で、視力以外の優れた感覚を生かして、村中を歩き回ることが出来るし、仕事を手伝うこともできた。
「穂波お姉ちゃん、昨日は眠れた?」
真喜里は穂波を見上げて、子ども特有の柔らかい声で尋ねた。
大丈夫、と穂波は答えたがもちろん嘘だった。小さな少女をいたずらに心配させることに気が引けたのだ。しかし、真喜里はどこか不服そうに「嘘でしょう? 眠れなかったでしょう?」。
「……よくわかったわね」
「腰に手を当てたときに、血の流れがおかしかったもの」
案の定即答してそう述べる少女に、どうしようもなくなった穂波は苦く笑った。いくら感覚が優れていようとも、皮膚下の躍動まで感じ取られるとは思わなかった。
穂波が驚いていると、腰に回された手にぎゅっと力がこもった。穂波は首をかしげて
「どうしたの?」
「さんにん、帰ってこないの。おばあさまが、もうだめだろうって」
さんにん、と穂波は口のなかで呟いた。聡い少女は、その言葉にいったいどれだけの重みを感じたのだろうか。小刻みに揺れている真喜里の肩を、穂波はなんともいえない気持ちで見つめた。そして、そっと尋ねる。
「真喜里、いっしょに岬に行ってみる?」
穂波の問いかけに、真喜里はおずおずと答えた。
「行ってみる」
「じゃあ、いこう」
穂波はほほえんだ。そして、見えていないにも関わらず、それに答えるように、真喜里も笑った。
「……やっぱり、いけない」
地面から突き出た場所にでる一歩手前で、真喜里は立ち止まった。実のところ、真喜里は高い場所が苦手なのだ。見えなくとも、風の通り方などでそれを機敏に察知してしまい、足が動かなくなるらしい。
穂波は俯く真喜里を抱き上げて、近くにあった岩の上に座らせた。そして、自らも横に腰掛ける。ぽんぽんと髪を撫でてやると、真喜里はいっそう俯いてしまったが、行ってきて、と蚊の鳴くような声で言った。
しばらく穂波が考えあぐねていると、しびれをきらしたように真喜里は顔をあげた。そして、自分の無力さを噛みしめるように小さな拳を握り締めながら言った。
「わたしのぶんまで、お祈りしてきて」
後ろ髪を引かれたものの、結局真喜里を残して、穂波は岬の先へと歩を進めた。頬を撫でる潮風は優しく、波は落ち着いている。
穂波は今日に限らず、毎朝少し早く起きて岬に出る。昨日も、おとといも、どこまでも続いている碧海を、その彼方にある何かに惹かれるように眺めるのが彼女の日課だった。
視界いっぱいに広がる碧海は、どこまでも碧い。波杜(はと)の海と陸の境界線は白いなめらかな砂浜ではなく、ごつごつとした岩で、岬にたって眼下に見えるのは珊瑚礁だ。波が打ち寄せしぶきをあげるその景観は迫力があり、長年波に打たれた岩や崖には、大きな穴が開いている。波杜の岬が見せるのは、美しい碧海ではなく、どこまでも荒々しい碧海の姿だった。だからこそ、波杜の民達は海の荒々しさ、恐ろしさを知っている。
しかし、《嘆き》というのはあまりにも突然やってくるものなのだ。
昨日の場合は、太陽が傾き始めたころ、突如どす黒い雲が空を覆い、それから数刻も置かぬ間に、大地を揺るがすほどの雷鳴が轟き、身を刺すような雨が降ってきた。
そのとき穂波は真喜里を手伝って、岬の下の小さな砂浜で貝殻を拾っていたのだが、雷鳴に驚いて落としてしまった貝殻を拾っていたら、おそらくふたりとも波にさらわれていただろう。息も切れ切れに崖の上へと上がったときには、小さな砂浜はすっかり波に飲まれてしまっていたのだから。
昨日、《嘆き》の前に漁に出ていた船は一隻。乗っていた漁師は三人。
真喜里が聞いたとおり、おそらく、もう生きてはいないだろう。
穂波は静かに目を閉じて、昔へと思いをはせる。
穂波は波杜に身寄りがいない。唯一ぼんやりと覚えているのは、波杜の村はずれにある稲畑――たわわに実った金色の稲穂のなか、でうずくまっていたことだけだ。
そんな自分を引き取って養ってくれたのは、長老の長男で、我児奈波の北にある、『山都国(やまとこく)』から帰ってきたばかりの、延月(えんげつ)という男だった。彼は、長老家からはなれたところ――現在穂波が住んでいる場所――に家を建て、そこでふたりで暮らすことにしたのだ。
『お前に名前をあげよう。そうだな、穂波にしよう。お前はまるで、神様から下ろされた子のように、金色に光る稲の合間から出てきたんだよ。それこそ、金色の海から浮き上がってきたように』
そう言って、延月は穂波の頭をなでた。与えられた名前。頭をなでる、重いけれど温かくて大きなてのひら。延月の何気ないしぐさや、自分にしてくれるひとつひとつのことは、穂波に自分の居場所があるという安堵感をもたらした。延月が、まるで自分をわが子のように扱ってくれるのが、ひどくうれしかった。
彼は、山都について話をすることはとんとなかったが、外の世界を知らない穂波があまりにせがんだとき、唯一話してくれたのは、山都にいる間暮らしていたという『水瀬島(みなせじま)』から見た、海の話だった。
『水瀬島から見た海は、空の蒼とも、碧海の碧とも、同じようで違うんだ。空の蒼より深く、海の碧より翠がかっている』
延月の話してくれた、外の世界の海――幼い穂波はよくその海の色を想像したものだった。
延月と一緒にいるとき、穂波は幸せだった。たとえ血は繋がらなくとも、延月は穂波にとって肉親とも呼べるほど大切な存在で、穂波のなかのほとんどを占めていたといってよかった。
しかし、穂波が延月と暮らし始めて五回目の夏、何故かその日、ひとりで漁に出た延月は《嘆き》に飲み込まれてしまった。
《嘆き》に飲み込まれたものの中で身体だけでも戻ってくるものは幸せだと、真喜里の母である狭桐(さきり)はいっていた。数十年前、狭桐の父、つまりは長老の夫、真喜里の祖父に当たる人物も、《嘆き》に飲み込まれたが、何も戻ってこなかったという。
そして、狭桐の父と同じように、一週間経っても延月の遺体はあがらなかった。
現在、延月の死からさらに五年が経ったが、《嘆き》の犠牲になる民は消えなかった。そして、今回も。
(祭の前なのに)
波杜には、年に一度ほど――丁度今のような季節――岩場に鰐(さめ)が打ち上げられる。
鰐は海神からの一番の恵みであり、その頑強な皮膚は岩場を歩く民たちの靴に、肉は焼いて食べ、骨は漁の得物となる。その身の中のひとつとして無駄にならない、最高の恵みだった。
故に、鰐が打ち上げられると、波杜では海神を讃える祭りを行う。一月の間に、できうる限りの準備をし、滅多に食べることのできない豪勢な食物や、美しい装飾を自らに施すのだ。
《嘆き》の前に穂波と真喜里が集めていた貝殻も、祭のための装飾品だった。
そして、飲み込まれた漁師たちが獲りに行ったのも、祭の食事のためだった。
「どうして」
苦虫を噛みつぶしたような声で、穂波は呟いた。
穂波にはわからない。どうして、海神は命を奪うのか。どうして、恵みを与えながらも殺すのか。子供が、もう戻らない父を呼ぶ声が、泣き叫ぶ妻の声が聴こえないのか。民たちの祈りをどうして聞き届けないのだろう。わからないこと、納得できないことが多すぎる。穂波は海神が嫌いだった。大切なものを奪っていく、慈悲の欠片もない神。
「延月……」
文字の読み書き。釣りの仕方。木の実の見つけ方、全て彼に教わった。穂波にとって延月は、世界で一番大切なひとだった。
『海神は世界のどの神よりも哀れな神だ。もしおれに何かあっても、穂波は海神のようになってはいけないよ。嘆きは人を悲しますだけだ』
漁村の民、特に漁師たちは常に死と隣り合わせに生きている。延月が穂波に言ったことは、村の子なら一度は告げられることだ。悲しんではいけない。嘆いてはいけない、と。
ざばん、と、ひときわ大きな波が岬に打ち寄せた。潮風に乗って、大きな飛沫が穂波の頬にあたり、ひとすじに流れた。 それこそ、涙のように。
穂波は自らの頬を伝うものを拭い取り、肌の上にわずかに残るそれを見て思った。
(あたしは延月の死を嘆いたことはない)
それは、彼が死を嘆くなと言ったからだ。
(だから、泣かない)
あっという間に肌の上の雫は消えうせてしまった。穂波は、もう一度心のなかで繰り返した。
(あたしは、泣かない)
――ほんとうに?
どこからか、誰かが問う声がした気がして、穂波は思わず目を見開いた。周りに人影はない。風の唸る音が少し聞こえるだけ。
そのはずなのに、どこからか声が尋ねるのだ。
――あなたは、延月が死んだと伝えられたとき。
あまりにすべてのことが唐突過ぎて、泣くことも忘れていたのでは?
すべてがひとごとのような気がしていたのでは?
「違う」
穂波は声を振り払うように首を大きく横に振った。
彼が嘆くなといったから、嘆かなかった。延月は、死んだ。死んでしまった。
でも――
『この碧海の向こうにある山都国、延月のやつはそこに忘れ物でも取りに行ったのさ。気を落とすなよ、きっといつか帰ってくる』
村の漁師たちは、また身寄りをなくしてしまった穂波に向かって、慰めるようにそういった。そして、そのとき、生まれてしまったのだ、どうしようもない希望が。
穂波はもう一度大きく首を横に振った。
現実を見つめられない自分が愚かしく、情けなかった。
今でも、延月の死を心の奥底で認められていず、喪失を一種の思い込みによって補おうとしている自分。希望を捨てられず、こんな風に毎朝岬に出て碧海の彼方の国に、思いをはせる自分。まるで、延月に何かを伝えようとするように。
自分の心が、聞かされた言葉に反応もせず、小さな希望の欠片にしがみついていることを知りながらも、 穂波は、延月が死んだと伝えられたときから、自らに何度も言い聞かせた言葉を反芻する。
(延月は、死んだ。死んだのよ)
(……もう、こんなことが起こりませんように)
祈りを終えると、穂波は真喜里のところにもどった。
「穂波おねえちゃん、ありがとう」
やや立ち直って、にっこりと笑って礼を言う少女にどういたしまして、と答える。そして、何故か岬の下の岩場に目をうつした穂波は、船を繋ぐ為の縄が無残に千切れ、波にもてあそばれているのを見た。また木々を集めて作り直さなくてはいけない――と思ったそのとき、ひとつ、岩場に小さな影を見つけた。
岩と岩の間にひっかかり、ぼろきれのように波に揺られている影。ちょうど岩と岩の影になったところにそれがあるため、目を凝らしてみても影の正体はつかめない。
「ひと?」
《嘆き》に飲み込まれた漁師の遺体か、はたまた船の残骸か、それとも――流れ着いた者か。
遺体だけは勘弁して欲しい、と穂波は思った。《嘆き》に巻き込まれた者の身体はとにかく酷いものだと聴いたことがある。目にして平常心を保っていられるとは思えない。
村のものを呼ぶか、それとも、見てみぬふりをしようか……
(でも)
もしかすると、生きている人かもしれない。しかも、一刻を争う怪我をした。
「真喜里、ちょっとここで待ってて」
「どうしたの?」
「岩場に、影がある」
「……影?」
「待ってて」
穂波は真喜里をおいて、影のほうへ向き直る。
「行、こう」
自らに言い聞かせるようにそう呟いて、穂波は岬を駆け下りて岩場へと向かった。そして、影の正体を見て、穂波は平常心を保つことができたことに不覚ながら安堵のため息をついてしまった。
岩場に打ち上げられていたのは人で、もしかすると死んでいるかもしれない。しかし、話に聞いたように、腕ももげていなければ、足もちゃんとある、人の形をとっていた。
影の正体は、穂波と年のころは同じ位だと思われる少年だった。
見たことのない形の黒い衣に、切り傷やあざだらけの身体。漁村の民から見れば、白すぎるともいえる肌の色。
そして、みるからに村の者ではない。つまりその少年は、漂流者だということだ。
穂波は始めて遭遇する漂流者に少なからず驚いたが、まずは手首をつかみ、脈を診た。
とくとくと、血が身体を廻る音に、穂波は安堵する。
(まだ、生きてる)
「……殺してくれ」
呻くような、ひどくかすれた呟きに、一瞬、びくりと穂波は身体をこわばらせた。しかし、すぐに警戒を解き、肩の力を抜く。そして、落ち着いて考える。
相手は動くこともままならい怪我人だ。もしかすると全身の痛みゆえ、思わず口走った言葉かもしれない。それに驚いてしまった自分に苦笑し、そっと尋ねる。
「意識はあるようね。――名前は?」
「ない」
かすれた声で、吐き捨てるように言われたその言葉に、穂波は面食らった。
そう、と精一杯落ち着いた声で答えて
「ちょっと、衣脱がすわよ」
黒い衣ではどこが出血しているのかわからない。少年は不快そうに唸ったが、かまわず上衣の紐を解き、脱がせる。黒い衣は絹まではいかないものも、なかなかに高価そうな布だった。黒い衣のうちにあるのは、白いが、なかなかに強固そうな身体。
下半身というわけでもなし、もとから暑い気候の我児奈波の住人にとっては、男の上半身など恥ずかしくも思わない。一種の開き直りともいえる態度で、穂波は少年の身体を診る。そして、一瞬、血の気の引く思いをした。
「なに、これ」
少年の上半身には、目立った外傷も出血もみられず、せいぜい大きなあざが数個できているだけだった。しかし、穂波が思わず声を漏らしたのは、その肩にある、火傷だった。
右肩から肘までにかけて、焼き鏝を当てられたような痕があり、だいぶ昔の傷のようだが、ひどく皮膚が傷ついている。まるで、何かがのた打ち回ったあとの地面のようだ。なんだか嫌な感じのする、火傷だった。
「……傷はないみたいね。よくあの《嘆き》のなかで腕ひとつ持ってかれもせずに」
肩の傷のことを問うのは後だと思い切って、上衣の紐を結びなおす。肩を担ぎ上げ、少年をたたせた。少し重いが、人を呼ぶほどの重さではない。岩場に落とさないようにしっかりと肩を組む。
「ちょっと痛むかもしれないけど、我慢してね。屋敷はすぐそこだから」
びくり、と肩から少年が身体をこわばらせるのが感じられた。やめろ、と呻いて、逃れようと身体を動かすが、怪我のせいか、体力がないためか、ほとんど穂波に影響はなかった。
「……殺してくれ」
耳元で確かに、少年はそう言った。ひどく哀しそうで、辛そうで、苦しそうな声だった。
その言葉を諌めるための言葉を、穂波は知らなかった。命のやり取りをしたことはない。相手の命を奪うことも、自分の命を奪われることも、経験がない。
ましてや、相手に殺してくれと頼まれるなど。
「……殺してあげない」
しばらく悩んだ末、ただ一言、穂波は囁くように答えた。
その後、少年は何も言わず、穂波は足場の悪い岩場を、一歩一歩気をつけながら歩んだ。ふと横を見ると、すぐ傍に少年の顔がある。
少年の髪は黒く、たっぷりと水を含んで重々しかった。喪服のような黒い衣に、黒い髪。黒い瞳だったら鴉のようだ、と思わず穂波は考えた。
名前はない、と答えた少年。まるで、幼いころの自分のように。
『名前はあるのか?』
『ないよ。あったかもしれないけど、おぼえてない。なまえをよばれた、きおくがないから』
『そうか』
延月に名前を訊かれたときを思い出す。ほかの国にいたせいか、やや漁村の者の中では白かった肌。生来刻まれている眉間のしわが、はじめはとても怖かった。しかしそのあと、延月は自分に名前をくれた。
この少年が、もし名前を持っていなかったら、自分が名前をあげよう。そんなことを考えて、穂波は思わずふわりと笑った。
「穂波おねえちゃん……生きてるね、そのひと」
思ったとおり、事情を説明しなくとも、真喜里は瞬時にこの状況を理解したらしい。
「よかったね」
真喜里は笑った。
うん、と穂波は答えて、改めて思った。
(……生きていて良かった)
どこか自分と同じ空気をまとっている、この少年が。

ルウヒさま
サイト名:ヒカリトプラス。
URL:http://hikari.s167.xrea.com/
ほんわりとした、しかし美麗な絵を描かれる方です。
特に、ルウヒさまの描かれる少年・少女は多彩で、生き生きとしています。
ルウヒさまの絵は、私が目指す絵柄でもあり、とてもあこがれています。
そんなルウヒさまに絵師をやっていただけるなんて、本当に嬉しいことなのです^^




